大学2年の時に『父が末期の胃癌』という母からの手紙が届いた。発見できた時にはもう末期という症状。
胃の全摘出手術に立ち会い、摘出した胃を先生が見せてくれたが、血液で赤い健康な人間の臓器とは真逆の、がん細胞に犯されたヘドロのような腐った青緑色をした胃だった。
本来なら大学を休学して、母の側にいて父の闘病を支えるべきだが、親不孝な私は東京で大学生活を送りつづけ、たまに帰省していた。
抗がん剤を投与しながらの闘病生活を送る父は、時間と共に衰弱していき、あんなに太くたくましかった腕も脚も、骨と皮だけになっていった。
抗がん剤の副作用もあり、痴呆の症状が出始めた父。私を自分の息子だと認識もできなくなっていたと思う。
最後となった再会時、涙を流す父。その訳を聞くと『みんなが優しいから』。
1年後、赤ちゃんに戻った父は亡くなった。
骨だけになり納骨された父。数年前は肉体も魂もあり、人間として生きていた父は今は骨になった。(この時、いずれ私も骨だけになるのか・・・そんな思いが私の中に芽生えた)
父は死んだけれど、残された家族はまだまだ続く自分の人生を歩んで行かなければならない。以前と変わらぬ生活をこの先も送り続けていかなければいけない。
世の中は私たち家族のことはお構いなしに回っていく。
この人間の生きることの無意味さ。人間社会の無常さ。命の儚さ。を父の死を通して実体験した。
このような経験を通して、私は次第に次のように考えるようになった。
人の死は多くの人が経験すること。
人間の生きることの無意味さや、人間社会の無常さ、命の儚さというものは、誰もが感じ取っているしわかっているんじゃないだろうか。
わかっているけれど、それを言ったところで何も変わらない・・・。今日も明日もその先何十年も、命ある人間として生きて行かなければいけない・・・。
人は皆、自分はいずれ死ぬし、無常さをわかっているからこそ、その中で人間の喜怒哀楽を楽しみ、限りある生を充実させようとしているのではないだろうか。
あのおじいちゃんもおばあちゃんも、あのおじさんもおばさんも、あのサラリーマンもOLも、愛し合う恋人達も、大学の友人も大好きなあの子も、皆わかっているし、何処かでそれを感じているんだろう・・・。
それでも毎日『今日が人生最良の日であれ』と思い、生きているのだろう・・・、と。