ここまで『人はなぜ生きるのか?』という問いに、20代前半に私が特に影響を受け、未だに強く私の中に存在し影響しているものを書いてきた。
- その1:黎明期
- その2:深夜ラジオ(予備校時代)
- その3:火の鳥 手塚治虫(予備校時代)
- その4:著名人、言論人の言葉(大学時代)
- その5:父の死(大学時代)
- その6:Mr.Children桜井和寿の歌詞
それらが私の中で影響あるもとして強く存在し、普段の生活や交友関係など、20代前半の私の人生に影響を与えていたし、行動にも影響を与えていた。
その頃、私の中ではまだ
人間が生きることに意味は無い
自分の存在にも意味が無い
というネガティブな思考が強く存在していた。
しかし、それとは相反するように
故郷に錦を飾ってみせる
充実した人生を送りたい
何にでも挑戦してみたい
自分は何だってできる!
という人生経験がないからこそ抱くことができる、若者特有のポジティブ(能天気?)な思考も強く存在していた。
相反する2つの思考が私の中に存在し、その日の気分で片方が強くなったり弱くなったりし、はっきりとした確たるものを自分の中に見いだせないまま、何かモヤモヤとすっきりしない思考・概念・人生観・感情が常に自分の中あった。
そんなある日、大学4年だったか、社会人になっていたか、はっきりと覚えていないが、いつものようにMr.Childrenのアルバムを聴いていた。
今となってはアルバムの名前も曲名も思い出せないが、当時もう何十回と聴いている曲なのに、なぜかその日に限ってその曲の歌詞が私に刺さった。
その歌詞は『そうです。僕らが生きることに意味はないんです。』
その歌詞を聴いた瞬間、私の中のモヤモヤとしていたものたちが、すーーっと整い全てがクリアになった。
そうだよな。人間が生きることに意味はないよな・・・。
そうか!そもそもの意味が無いんだから答えだって無いんだ!答えを出そうとすること自体が意味のないナンセンスなことなんだ!
しかし、俺は命ある者として生きていかなきゃいけない・・・。
そうか!人間は『なぜ生きるのか?』じゃないんだ!『どう生きるのか!』なんだ!
この世の中も、人間社会も、人はなぜ生きるのか?という問題だって、人間が自ら創り出したもの。ということは、答えも自分で創ればいいんだ!
そのために『どう生きるのか!』なんだ!
人間は創造できる生き物だし、無い答えはどんなに探したって見つからない、だから無ければ創ればいいんだ!
という思考が頭の中に次々と湧いてきた。
私にとって衝撃的な雷に打たれたような出来事だった。
気がおかしくなりそうな程、あれだけ様々な思考・熟考・思いを巡らせてきたし、私の中に常にモヤモヤとして存在していたものが晴れ、答えが出たのだから。
いや、答えが出たという表現も正確ではない。その問いに対しての『見方が変わった』という表現の方が正確かもしれないし、全く違う土俵に移動したとも言うべきだろうか。
それまでの私は『人はなぜ生きるのか?』という問いに、神様が用意した崇高な答えがあるんだろうと思っており、より深くより高いレベルで熟考・思考した者だけがその答えにたどり着け、実際にたどり着いた者は歴史に名前が残る賢者と言われる人たちなんだろうという、漠然としたイメージを描いていた。
しかし、『答えを出す・答えにたどり着く』という表現が成立する問いは、1+1=2の算数のような不変の答えが存在している問いに対して成立する問いだ。
『人はなぜ生きるのか?』という観念的、哲学的、死生観的な問いに、当然ながら不変の答えなど無く、『答えを出す・たどり着く』という表現はどうも具合が悪く腑に落ちない。『自ら答えを創り出す』という表現こそ合っていると思う。
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人間は創造できる生き物
人はなぜ生きるのか?という観念的・哲学的な問いは、人間が勝手に作り、勝手に悩んでいる
答えが無ければ自分で創造すればいい
だから『なぜ生きるのか?』ではなく、『自分なりの生きる意味を創り上げるためにどう生きるのか?』という考え方、人生論、死生観に私はいきついた。